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あの日から

2022.07.07

 

 

2011年8月22日過去ブログ

 

 

 

 

 

2011年3月20日(日)16時25分

今日はエクストラスーパームーンと呼ばれる満月だ。19年ぶりに月が地球に最接近する。月が最も遠い距離にある時と比べると、およそ14%も大きく30%も明るく見える。今日、最も美しく見えるのは月の入りの時で午後5時~6時である。

 

 

 

私はデジカメを片手に家の外に出る。あいにくの分厚い雲だが、その雲を押し破るように月が顔を出そうとしている。満月の時には、地球を挟んで太陽と月の引力が反対方向から作用する。

 

 

 

女性の体は、月の満ち欠けに影響を受けるし、実際に太陽や月の引力が私たちの心理や行動に変化を与える事を「バイオタイド理論」と言う。兜町では、満月の日には投資家も直情的になると言われていて、株価の変動も大きく相場の転換点になると言われている。

 

 

 

雲間から射す月の光がまぶしく、デジカメのレンズ越しに目を細めた。俗に、新月は願い事で満月は浄化と言われている。「あぁ、今日の月の浄化は凄いなぁ。」と体感しながらシャッターを切り続けた。

 

 

 

 

 

その時のガラケーによる写真

 

 

 

 

 

 

2011年3月20日(日)17時27分

横浜市某所

 

 

 

信号帯のない交差点を、市立中学校を卒業したばかりの男子3名が斜め横断しようと、交差点を行きかう車の流れを見ていた。他の仲間はすでに道の向こうに渡っている。仲間に追いつこうと車の流れを縫って3名は一列になって自転車を飛ばし、2番目を走る男の子が2トントラックに撥ねられた。

 

 

 

すぐに近くの赤十字病院へ搬送される。撥ねられた男の子の母親が病院に到着した時に男子は体をブルブルと震わせていたが、やがて自発呼吸も止まった。

 

 

 

くも膜下出血に硬膜外出血と、頭全体を強打していてあちこちから少量の出血があるため、頭を開けて手術という訳にも行かない。

 

 

 

脳圧を下げるため体温を34度に保つ。身体を冷やす、脳に穴をあけチューブをいれる。この時、脳圧80over。(普段私たちの脳圧は5~10だ)今、出来うる限りの処置を行うだけ。

 

 

 

 

 

 

事故の翌日

2011年3月21日(月)7時30分 春分

 

 

 

事故にあった男子の母親が医師から説明を受ける。「自分自身の経験からも、この状態では今晩は越せないと思います。すでに自発呼吸も止まっていますし。ただ15歳という年齢なので、今すぐに脳死と判定するのも…一時心肺停止しましたが人工呼吸を付け動かしている状態です。会わせたい人に会わせてください。体は無傷ですし、臓器提供なども考えておいてください。」

 

 

 

 

 

12時13分

近所のママ友達から私宛にメールが来た。「息子が夕べ交通事故。会わせたい人がいたら呼んでくれって。もし良ければ会ってくれる?」

 

 

 

13時00分

病院到着

 

 

 

ICUの扉の前にかなりの人数がいる。事故にあったその男子は先日中学校を卒業したばかりと言う事もあり、友達もかなりの人数が来ている。身内や知り合いも含めて、廊下に100人以上が集まっている。扉の向こうへ入れるのは3人ずつで、15分。

 

 

 

ママ友達は私を見付けるとすぐに次の3人として私をICUの中に誘導してくれた。お互い顔を見るも言葉も無い。

 

 

 

 

 

 

13時10分

ICUに入る。

 

 

 

45度ほど背もたれの上がったベッドに寄りかかるように横たわる彼を見た時に、私の心臓はバクンッと跳ねた。

 

 

 

自宅でベッドで眠るように亡くなった夫の姿が被ったのだ。ベッドの上に横たわる夫の姿は子どもたちから見るとすやすやと眠ってるように見えたようだが、私にはそこに何もないのがすぐに解った。亡くなっている。

 

 

 

あの日の事がデジャヴのように思い出された。夫を彷彿とさせる寝姿で彼はそこにいた。紙おむつを充てた姿で彼の入れ物としての体が、ただそこにあった。こんな状況は初めてだし私に何が出来るかわからない。

が、自分がやることをやるだけだ。私は友人としてだけここに呼ばれたのではない。

 

 

 

私の生業を説明することは難しい。分野で言えば占術家や霊能者という型にはめた方がわかりやすいだろうか。

その人に必要な言葉を伝えたり、道教の靈符を書いたり、四柱推命やタロットカードリーディングや除霊や家祓いやエネルギーワークも含まれる。

その人の意識のありように応じたことを行うことで観念や概念が最適化されることもある。どこかのセミナーで学んだ訳ではない。人生経験に必要な全ては盛り込まれていたと思う。

 

 

 

なぜこの仕事をしているのかと問われたら、「この仕事をするその時が来たから」という感じだ。

 

 

 

 

 

私は体が動くに任せ彼に近づき、彼の頭を両手で挟むように手を置いた。手を置いた瞬間に、彼の右側頭部に置いた左手のてのひらが電流を当てられたように弾き飛ばされ、ビリビリした感じがしばらく続いた。

 

 

 

初めての感覚と経験。とにかくやることをやるだけなのだと、深い呼吸と共に再び彼に向き合った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このママ友達である友人の名前を京子としよう。6年ほど前に離婚をし、子供が3人(高2・中3・小5)いるシングルマザーで、私の娘と彼女の娘が3歳の頃からバレエ教室が一緒だった。

 

 

 

子どもたちは一緒の学校ではないので頻繁に会う事はなかったが、一昨年に我が家の近くのマンションを買って彼女たち一家が引っ越して来た。そして今年の1月に初めて息子を紹介された。

 

 

 

彼の名前は将(まさる)結構なやんちゃ坊主で、仲間と夜に遊び歩いたりして母親を悩ませていた。だがひとり息子でもあり、姉と妹から見たら「お母さんから甘やかされてずるいっ!」なんて言われていた。

 

 

 

事故の3週間前の2月下旬に将へのヒーリングを依頼されたことがある。「やんちゃばかりして高校進学も考えられなかったんだけどこの子もやる気になってきてね、調理師の専門学校へ行くことになったんだよ。でもね、たくさん寝てるのに異常なくらい朝起きられなくて困ってるの。食欲もないんだ。一度見てあげてくれる?」

 

 

 

友人の息子としてでなくクライアントとして向き合う。身体へのアプローチだけでなく、じっくりと色々な話をした。翌日の朝はスッキリ起きられてお腹の痛みは消えたそうだ。この時に彼の身体と関わっていたことが後に良かったのではないかと思えてくる。

 

 

 

ヒーリングの後、よく道端で会うようになった。会うときちんと挨拶してくれる。将との距離がグンと近くなったように思えた。そしてこの2週間後に東日本大震災が起こった。

 

 

 

 

 

 

京子も私も子ども3人を育てるシングルマザー。何があっても子どもたちの腹を満たし守る必要がある。3月11日の夜に京子から連絡があり、とりあえず明日は買い出しに行こうと約束をした。

 

 

 

翌3月12日に典子が車で迎えに来た。後部座席には将が座っている。将を送る道すがら3人でスタバの飲み物を買いしばしのおしゃべりタイム。彼は甘い甘い飲み物を美味しそうに飲んでいた。やんちゃばかりするとか言っているけれど、やっぱり可愛いよなぁなんて、同じく息子を持つ身としては微笑ましく二人のやり取りを見ていた。

 

 

 

最近、龍之介とよく会うなぁと思ってた矢先の事故だった。

 

 

 

 

 

 

 

再び事故の翌日

2011年3月21日(月)15時30分 春分

 

 

 

かわるがわるICUに来る人たちは最後の別れと思ってベッドに横たわる将に語りかけている。京子にお悔やみの言葉をかける人もいる。

 

 

 

将の友人たちはまだ15歳。ショックを受けて泣いている子がほとんどだ。私は将の頭部の近くに立ちながら、見舞客の言葉を背中で聞いていた。彼らの言葉が将に届かないよう守る壁のように。

 

 

 

今、欲しいのは「希望」だ。まだ終わっちゃいない。

 

 

 

 

 

 

30分ごとにそばのパイプ椅子で休憩をとりながら、私は私のやることをやっていく。ICUに入ってすでに2時間半が経過していた。数度目かの休憩の時に私はある確信を持った。彼の体に光を感じたのだ。ただの物体だった体に光と熱を感じたのです。

 

 

 

先の先の先のことなんてわからない。けど、今日という日に生きるか?死ぬか?と問われたら、生きると確信した。京子にもそれを告げた。もちろん信じていなかったようだけど。そしてもちろん、友人だからこそ言えたのだけれど。

 

 

 

私だって、わ  か  ら  な  い。けれど訳のわからない確信がある。

 

 

 

その日の夕方の帰る頃には脳圧が30台に下がっていた。病院を後にし急いで自宅に帰り、我が子たちの夕飯を作り終えると京子の家に走った。彼女の体のこわばりを感じながらささくれ立った神経に寄り添う。彼女が今日ゆっくりと眠れますように。エネルギーワークをしていると彼女の体から力が抜けて行く。

 

 

 

「あぁぁぁぁぁ、頭の上にカップラーメンに入ってるモジャモジャの麺の塊みたいなのが乗ってたけど、それがほぐれて抜けて行く感じ…」そういいながら京子は丸一日半ぶりに眠りについた。夫の看病と介護に寄り添った私はここからがタフでなければならない事を知っている。祈るように典子の身体に手を当てた。

 

 

 

 

 

 

 

事故から3日目

2011年3月22日(火)13時

 

 

 

午前中病院へいった京子の妹の話だと「朝方に筋弛緩剤を抜いたら自発呼吸をしました」と担当医から聞かされたそうだ。しかしまだ弱いので人工呼吸で管理してます。と

 

 

 

しかし午後に京子と私が病院に行った時には再び脳圧が上がり、なかなか下がらずにいた。自発呼吸をしたという事で期待を持った分だけ京子のメンタルは不安定になり、泣いたり怒ったりしている。それをなだめながらふと思う。私は最初のメールをもらった時から今の今まで、ただの一滴の涙もこぼしてはいない。

 

 

 

同じ年頃の子供を持つ身としたら泣き虫の私はすぐに泣いてもおかしくないのに涙が出てこないのだ。絶対に彼が生きるという確信があったからであろうか。

 

 

 

 

 

 

 

事故から4日目

2011年3月22日(水)午前

 

 

 

病院から電話があり、呼び出された京子が慌てて家を出る。医師からの説明によると、CT検査により右側頭部に大きな血の塊が確認されたのでこれから手術をするとの事。術後は脳圧が下がるのではないか、という見解だそうだ。すぐに私に連絡が来た。電話越しに彼女の興奮具合がうかがえる。

 

 

 

彼女から「手術出来る!」と連絡を受けた時に「右側頭部でしょ?」と言えたのは、あの最初のICUの時に将の頭に手を当て跳ね飛ばされた左手の感覚が甦ったからだ。

 

 

 

右側頭部は撥ねられた衝撃で頭がい骨の合わせ目が傷ついたと考えられるそうだ。いわゆる骨折の状態だ。事故後に病院に運ばれた時には、頭蓋のあちこちから少しずつ出血してるし脳圧が高いので手術は出来ないと言われていた。いわゆる、なすすべがない。

 

 

 

それが、手術が出来る!あちこちの出血が右側頭部の一箇所に集まったということで手術が出来る!!昨日は、人工呼吸を付けているし色んな管を付けてるしCTを撮るのもリスクが高いと言われていたのに!!!

とにかく前に進んでいる。事故直後には脳死や臓器提供の話までされていたのになんという生命力!!

 

 

 

「手術は無事に終わった」と京子からの連絡を受け、私は急いで病院に向かった。術後の彼の体に触れ家路についた。京子のメンタルも事故当日よりはだいぶ落ち着いたようだ。明日は彼女と話をしなければならないだろう。この話を避けて通る事は出来ないと私の直感は告げている。

 

 

 

 

 

 

事故から5日目

2011年3月24日(木)11時00分

 

 

 

京子に連絡をし呼び出した。お茶を飲みに行く気持ちでもなく車の中で向かい合う。

 

 

 

京子は別れた旦那を憎んでいた。確かに彼女のカードで借金をし尽くし、子どものためにと貯めておいた貯金も全て使われたり、ブロン液を通常の何倍もの量を飲み朦朧とした頭で時に暴言を吐き暴力を振って来ては喧嘩になると泣きすがり謝る人だった。その反省はその場限り。

 

 

 

段ボール3個と手荷物と、小学校6年生の長女を筆頭に子ども3人を連れて京子は家を出た。港湾関係の事務に付き、銀行からのわずかな借り入れを元に6畳二間のスペース内にキッチンとバストイレが付いている小さな社宅で新しい生活をスタートさせた。

 

 

 

思春期の入り口に入っていた長女は荒れに荒れて母親に当り散らした。「お母さんのせいでこんな生活をしなきゃならなくなってるんだよ!!どうしてくれるのっ!!」長女は中学に入学し吹奏楽部に入る夢があった。その夢すら奪われそうで不安で、母親に当り散らす毎日だった。

 

 

 

しかし京子はここからの数年、目を見張るほど頑張った。昼は事務の仕事に夜は焼肉屋で働きに働いて数年後にはとうとう中古のマンションを買い自家用車を持つまでになった。長女は中学に入学後に念願の吹奏楽部で力を発揮し、その後は特待生として高校を決め、家族の新しい始まりのスタートを切ったところだったのだ。そんな矢先の事故だった。

 

 

 

京子はいつもこぼしていた。「旦那…いや、あいつに負けたくない。あいつを見返してやる。そういう想いで今まで頑張って来たんだ」

 

 

 

事故にあった将がやんちゃをすると、「うちの息子大丈夫かなぁ。あの男の血を引いてると思うと、もう嫌で嫌で仕方なくなるのよ。息子は好きだけど、遺伝とか血すら全部取り換えたいの!!!」

 

 

 

いつもなら京子が話す以上は話に立ち入らず、深くは聞かなかった事も今日は全部喋らせる。全部を吐き出させるように彼女の話に聞き入った。

 

 

 

元旦那のひどい振る舞いや、元旦那の家族の振る舞いが次から次へと出て来た。彼女が一通り話尽くしたところで、絡まった紐を解くように話し始めた。旦那の行為は許さなくていい、むしろそこじゃない。旦那を許すことを促すつもりもない。ただ京子自身が手放すべき感情や気持ちがある。それを持ち続ける事が先へ進むのを阻んでいるという事実。それについて、私の言葉で丁寧に丁寧に彼女に伝える。

 

 

 

この事故が起きてから、今日この別れた旦那の親や兄弟や親せきもたくさん集まり見舞いに来た。彼らにとって将は初孫の内孫である。しかし京子の母親はそんな彼らの事を娘を不幸にさせた悪者として捉えている。時に見舞客の前でも隠すことなく京子の母は愚痴る。「私たち家族はあいつらを恨んでいる」

 

 

 

元旦那の義母も息子が使ってしまったお金を返せるものなら返したいと思ってはいる。しかし家業の魚屋は縮小し家計も火の車の状態だ。仕事柄チャキチャキとした義母の歯に衣着せぬ物言いが、余計に両家の溝を深めてゆく。離婚直後は京子の母と元旦那の義母の間で罵り合いだけでなく、恨み辛みの手紙の応酬があったらしい。お互いにいまだにその手紙は取ってあるそうだ。

 

 

 

この恨みの感情は一瞬で超えられるものではないのかもしれないが、乗り越えていかなければならない事でもあるのだ。そのためにはそれぞれが自分の中にある見たくないものに向き合わなければならない。

 

 

 

京子には望む現実がある。そのためにはまず意識を変える必要がある。「家系のクリアリング」そんな言葉が私の口をついて出て来た。この仕事を始めて3ヶ月の私がこの言葉を使うのは初めてのことだ。しかしそれは将のためでもある、という確信がある。

 

 

 

京子は自分の離婚によって子供たちを不幸な目に合わせたと、自分を責めていた。もうその罪悪感も自責の念も全てを受容し手放していいはずだ。なんと言っても京子は離婚をしつつも旦那の名字を名乗っている。それは将がその家の長男という事を考えてのことだ。そこに元旦那の家系への想いがないわけではない。それは紛れもない京子の選択であり事実だ。

 

 

 

ゆっくりと、ゆっくりと、私の言葉で伝える。

 

 

 

長い長い時間の後に京子は納得し、自分が今、何に向き合うかを理解した。そして自分がなすべき事も。ほんの少し顔が和らいでいる。ここ数年で久しぶりに見る顔だった。そしてまずひとつ行動を起こしてくれた。

 

 

 

長女を連れて元旦那のご先祖のお墓詣りに行ったのだ。その帰り道に義母に偶然会ったらしい。普段は道端で会う事もないのに。

 

 

 

京子は自分の率直な想いを義母に素直に伝えたそうだ。長い長い義母との話の後、京子の口からおもわず言葉がこぼれた。「ごめんね、ばぁば。」

 

 

 

そしてこの日の夜から将は、34度に保っていた体温を徐々に上げ始めることになった。自発呼吸も認められた。やっとやっと医師から、「生きるか死ぬかというところでしたが、今日明日に死ぬ、というところからは脱しました。」と言われたのだ。将の生命力の尊さに感謝が込み上がる。

 

 

 

 

 

 

 

 

事故から6日目

3月25日(金)午後

 

 

 

病院に着くと体に巻いていた体温調節のためのアイスノンが外されていた。外したばかりだと看護師が言う。筋弛緩剤も抜いているし睡眠薬の点滴も抜いている。今のところ自発呼吸をしていると説明を受ける。が、彼は、ぶるぶると震えている。

 

 

 

「まだ体温が戻りきらないので震えてるんですよ」看護師は何事もないようにサラリと言う。身体のところどころが冷たいので京子は一生懸命にさすってあっためてあげている。今はマザーズハンドが必要だ。それに敵うものはない。

 

 

 

しばらく席を外し戻って来ると、彼の体温は39.6度にまで上がっていた。身体を冷やした後にはよくある現象らしいが京子はピリピリしている。こういう時に言葉は無力だ。あえて言葉をかけずに家路についた。そして深夜に典子の母親から電話が来た。典子が荒れて当り散らしていると。

 

 

 

そんなの当たり前だ!!自分の息子が同じ状況ならば…なんて考えることすら、考えることすら私には出来ない。

 

 

 

その感情を吐き出させて欲しいと頼んだ。京子自身に必要な事なのだ。怒りや悲しみやつらく激しい感情も、それに蓋をするでなく、見ない振りをするでなく、そしてその気持ちを追い払うのではなく、きちんと吐き出し直視すること。今はそれが必要なのだ。

 

 

 

 

 

 

事故から8日目

2011年3月27日(日)午後

 

 

 

今日は、人工呼吸と点滴の管以外は全部外された。感染症もあるし、長い間入れておくのは良くないのだ。今後の治療方針としては、来週に呼吸の管理が出来るかどうかを見極めて、出来なければ喉を切開して管を入れるかどうかを決めます。と

 

 

 

あぁ、神さま。

ひとつひとつです。

ひとつひとつでいいのです。

 

 

 

人工呼吸と栄養剤の点滴だけの将が、痰を細い管で吸い出すときに嫌がるように身をよじらせました。その動作を見て、京子の妹が慌てて待ち合い室に呼びに来ました。それ以外は微動だにしない将が、京子の言葉を聞いてピクリと反応しました。一回だけじゃなく、数回動きました。

 

 

 

看護師に、「これからは刺激が大事です。」と言われ、京子と娘二人は自分たちの声を聴かせるためにICレコーダーを買いに行きました。写真を用意したり、将の好きな音楽を用意したり。

 

 

 

私はここまで来て初めて涙がこぼれました。ぽろぽろぽろぽろと涙をこぼしがら、私の顔は笑っていました。

 

 

 

この事故こそが、旦那を恨み、旦那の実家を恨み、自分以外の他者を信用せず、がむしゃらにやって来た京子の、家族の再生だと信じているからです。

 

 

 

京子の元旦那の家系には瀕死の重傷を負う人も多く、怪我や事故が絶えないと言った事実がありました。あの満月の日に、将が家系のクリアリングをすべくこの事故が起きたとするならば、今も尾を引く家系内にくすぶる恨みや膿を吐き出し切ること。ひいてはそれが将を回復させる事に繋がっていく。

 

 

 

物事は必然だと言うけれど、そう都合よく意味づけしても仕方がないと常々思っています。しかしなんでもいいんです。ドラマにはまっているとでもなんともでも思う人は思えばいい。泣き暮れているならば、そこに意味を見出し出来る事をしていこうじゃないか。

 

 

 

お母ちゃんだもの。転んでもタダでは起きるもんか。

 

 

 

 

そして京子とは連絡を密に取りながら私も日常に戻って行きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事故から57日目

2011年5月15日(日)夕方

 

 

 

久しぶりに将の病院へ行って来ました。京子に現状は聞いていましたが、この日は朝から「行かなければっ!!」と背中を押されるような感じでしたのでいきなり電話をかけて押しかけました。1か月ぶりの事です。

 

 

 

主治医からは軸索損傷により脳幹がやられているから今後は植物状態になってしまうと言われていました。呼吸を安定させるために喉を切開してパイプを入れていますが、それがいつ外れるかは今の段階では未定であること。しかし彼は現在、言葉に反応し今出来る精一杯の表現をしています。

 

 

 

右側頭部を強打しているので、左半身に不自由が出ています。

 

 

 

左目が開きづらいのと左手が動きづらいのですが、京子が「手をこっちにちょうだい。」と言えば手を差し出すし、看護師さんが歯磨きをする時に「ベロをべーって出して」と言えばその通りするのです。だけれど、いまだ意識不明の状態です。

 

 

 

今日は病室にチベットの法具であるティンシャとシンギングボウルを持ち込みました。そしてたっぷりと1時間、彼と遊びました。将の脳幹に響くように無になり祈るだけ。将は時々身悶えて、声にならない声を上げます。

 

 

 

一瞬、両目をパッチリと開けて、いつもの本当にいつもの龍之介の顔を見せてくれました。それは事故後初めての開眼です。将の声に呼応するようい私も声を出します。それは人間らしくない声だったかもしれません。

 

 

 

あぁ、言葉にならない。押しかけるようにしてでも今日来て本当に良かった。病院の先生も言います。若い子の脳は予想もつかない回復をみせる場合があると。万にひとつの可能性があるならば、それを信じるのみ。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして翌日

事故から58日目

2011年5月16日(月)

 

 

 

なんと!呼吸が安定しているという判断が下され、喉を切開して入れていた呼吸補助のためのパイプが抜かれました。昨日はいつ外れるか解らないと言っていたのに!!胃には流動食を入れるための穴(胃ろう)が開いていますが、喉のパイプが抜かれたので口からご飯を食べられるかどうか、ゼリーやおかゆから試してみるとのこと。

 

 

 

この時点では、6月に千葉の療養センターに転院する予定でした。植物状態の人が行く療養センターです。しかし私は帰りの車の中で、「千葉に行くまでに決着がつくかもしれないね。」と京子に言っていたのでした。口から出るに任せて。

 

 

 

 

 

 

 

事故から59日目
2011年5月17日(火)

 

 

 

この日はウエクサ満月です。将が事故にあったのは東日本大震災から8日後のエクストラスーパームーンの日。満月の日でした。そしてこの5月17日のウエクサ祭(満月祭)から、ここにまつわる物事のスピードがUPして行ったように感じます。見えない引力で引っ張られているような気がするのです。

 

 

 

この日から連日典子からメールが来ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事故から59日目
2011/05/17 典子のメールより

 

 

 

『この前はありがと! 今日ね、先生が来て、りんごのゼリー食べさせるテストしたんだけど、 見事クリアー!!ごっくんして下さいね~との先生の問いかけに、ちゃんとごっくん出来たの。 最初は小さじくらいの量を三回ごっくんして、次は大さじスプーンくらいの量をごっくんできたって!!

 

 

 

あと、三枚のカードを先生が持ってきて、本、めがね、あと一枚はわかんないけど、本はどれですか~? の問いかけに、目を大きく開けて、一番上の本の絵を見ることが出来たって。

 

 

 

舌も右に出して~。とか、左に出してください。って言われて、右左がわからないみたいだから、 歯ブラシで、口の端をちょんちょんとつついて、こっちですよ~って言ったら、ちゃんと舌を指定のほうへ持ってこれるって。先生、脳神経がちょっとずつつながってきてるって!!嬉しいよ~!!また、時間あるとき、将見に来てね。』

 

 

 

うん、水は低きに流れるように物事が流れ始めたように感じます。

 

 

 

 

 

 

 

事故から61日目
2011/05/19 典子のメールより

 

 

 

『昨日、会社の人、二人がお見舞いに来てくれたんだけど、龍之介が小学生の時から、バーベキューや釣りなどに連れてってもらった人たちなの。「龍之介、パンチだパンチ!!」って一人の人が両手を広げたの。ボクシングのミットみたいにね。そしたら、龍之介、その人の両手めがけて、右手をグーにしてパンチしたんだよ!!

 

 

 

その後の龍之介の顔がまた面白かったの。みんなにはわからないかもしれないけど、私には、「どうだ~!!」みたいな顔にみえたよ。 目も、してやったり♪的な、お目目してたわ。パンチ、1回だけじゃなくてね、2~3回したの!!その人もしつこいからさ、 龍之介、もう一回パンチ!!とか何回もやらせてたもん。みんな嬉しくてね。 歓声あがるあがる~♪また報告します』

 

 

 

 

 

 

 

2011年5月27日(金)

事故から69日目

 

 

 

この日は胃から流動食を流し入れるための胃ろうの穴をふさぎ、これで後天的に体に作った穴は無くなりました。翌日の夕食には念願のやまかけ牛丼だったそうです。

 

 

 

そして6月に入ると植物状態の人が入るための千葉の療養センターのチェック項目(意識不明であるとか、○○が出来ないとか6項目ある)その項目全て当てはまらなくなり、もっと軽い障害を抱えた方が行く厚木のリハビリセンターに決まりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事故から81日目
2011/06/08 典子のメールより

 

 

 

『昨日、厚木にあるリハビリテーション病院に龍之介を車に乗せて行ってきました~!!久々のシャバの空気に興奮気味の将。「また外に連れてってね。」「またドライブ連れてってね。」可愛いでしょ~。で、リハビリ病院で診察していただいて、来週、再来週のうちに転院できる事になりました!!!

 

 

 

鎖骨の骨折の手術(もう固まってて、肩にコブみたいになってるの。)もリハビリ病院で様子を見ながら行なうって事になりました。いろいろと心配、ご迷惑をおかけしましたが、これである程度メドがたちました。だいたい三ヶ月間入院して、それ以降は退院してうちに戻ってきます。

 

 

 

事故後6ヶ月で障害者手帳の申請が出来るんだけど、実際に使えるのは年末になるから、9月の末に退院しても年末まではデイサービスなどのサービスがまったく使えない。だから、その三ヶ月弱は、自宅で龍之介のことを見守っていられる状況じゃないとダメだって。それを了承しなければ入院させられないって言われ、仕事は辞められないし、辞めるつもりもないので、実家にお願いすることにします。

 

 

 

まぁ、その時に見守りなしでOKって事になれば一番いいし、そうなるように願ってるけどね♪ここ2~3日は、さびしがり屋さん、おセンチちゃんになっている将君。私がエレベーターを降りると、車イスに乗ってお出迎え。なんと、泣いてるのよ~!!

 

 

 

「母さん、来てくれてありがとう。」

「さみしかった。」

「明日も来て。」

「何時に帰っちゃうの?」

などなど、今まで聞いたこともないようなフレーズのオンパレード。今の将を楽しんじゃってまぁす。

だって、また元の素っ気ない龍之介に戻っちゃうでしょ。すぐに。長くなってごめんね。』

 

 

 

 

 

 

将はやんちゃな子でした。第二次反抗期も重なっていた事もあり、時には京子と掴み合いの喧嘩になり京子に手を上げたり…だけどこの事故を経て、赤ちゃんのような状態から2度目の子育て状態です。育て直しの機会を与えられたかのようです。

 

 

 

今日はお見舞いに行って、彼とたくさんお喋りしました。ゆっくりだけど自力で歩きます。ひとこと話すと、必ず「ありがとう。」と言って笑ってくれます。友達もたくさん来て、トランプやウノなんてやっちゃってます。典子はこぼれるような笑顔を見せてくれます。ついさっきの出来事も忘れてしまったり、ご飯を食べても食べても「お腹が空いた。」と言ったりしていますが、まだまだこれからです。

 

 

 

あの日から…あの日から、私の手や体や心が覚えた事がたくさんあります。体験を通した学びがたくさんあり、今もたくさんのものを受け取っています。

私自身のやった事が彼にどのように影響したかはわかりませんが、若い子の脳の回復の素晴らしさ、生きたい!という生命力に感嘆するばかりです。

 

 

 

将のこのプロセスと共に過ごした日々。初めての事ばかりでしたがこれを体験させていただいてるのだと実感するのです。

 

 

 

この事故は、ここに関わる人すべてにとってまさに意味のある事だと意味づけし決して無駄にはしない。あの日から、この事故に関わるみんなが自分を見つめ直し変わっていきました。何よりも私と京子は、あの震災直後の精神状態でこの事態に立ち向かっていました。

 

 

 

病室に詰めている時に大きな余震があり、その揺れで将に繋がれている全ての機器の電源が切れてしまうんじゃないかと言う恐怖との戦い。

そして家で留守番をしている子どもたちの心配。実家暮らしではないシングルマザーの私たちは、将の姉や妹や、さらには私の3人の子どもたちを家に置いて病院に来ている状態でした。

 

 

 

ICUにいる中で余震が起きるたびに鳴る私たちの携帯電話の着信履歴には「自宅」の文字の列。

家で留守番をしている子どもたちもあの震災の直後ですから不安な状態だったのでしょう。小学校が春休みにも関わらずどこに行くでもなく、でも母親のやるべき事を受け入れてくれていました。

 

 

 

その中で、何が何でも将が最優先ではなく、日々優先事項の選択を間違えないように、誰のメンタルも壊したくないと手探りで進んで来ました。

 

 

 

私は毎日祈っていました。

祈るしか出来ませんでした。

 

 

 

「私が自分のやるべきことをやり遂げられるようにどうか見守りサポートしてください」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事故直後から連日お見舞いに来る方とも色々な話をしました。自分を見失いそうな出来事も、それを受けてまずは自分に向き合うこと。

 

 

 

「将が良くなりますように」と対岸の火事的な願いではなく祈りへと昇華すべく、自分はどう生きていくかを見直す心。するとおのずと自分の体がやることをやるために動き出す。

 

 

 

全ては足元のことから。それは子育てであったり、家庭生活であったり仕事であったり町内活動であったり学校生活であったり、必ずしも被災地に対する直接的なボランティアでなくとも今、自分がやるべき事にきちんと焦点を当てて生きていくことは、ひいては震災の、いや日本の復興にも繋がると思うのです。

 

 

 

全ては繋がっている。

 

 

 

ゆっくりと、いま起きてる出来事は全てのちに笑い話になると信じています。全ての事にありがとうございましたと、そう言える日が来ると、私は信じているのです。

 

 

 

 

 

2011年8月22日
過去ブログ

 

 

 

 

 

 

このブログは2011年3月の事故直後からリアルタイムでアメブロに書いていたものを抜粋してまとめたものです。ブログ内の関係者からも「ぜひ書いて欲しい」と許可をいただき書いていました。当時のブログを読みながら一緒に祈って下さったみなさまに改めて感謝と敬意を込めてこれを捧げます。間違いなく私たちを支える力になりました。

 

 

今であれば違う表現になる箇所もありますが、当時のままに掲載しています。このまとめブログは事故の5ヶ月後に書いたものですが、この後のストーリーがあります。山あり谷あり。しかし全ては自分の意識のあり方でいかようにでも変わる。

 

 

ここに書いていることはほんの、ほんの一場面ですが、いづれまた詳細を書く機会がありましたらその時に。

 

 

2016年11月25日

あとがき

 

 

 

 

 

 

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