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あれから一年経ちました

2022.07.06

 

 

毎年3月は誕生月でもあるしバイオリズム的にも運気が良いと感じる月。

 

 

 

 

しかし昨年の3月(※2008年のこと)は、その掟を破って色んな事が勃発した。

 

 

昨年の7月から闘病中のパパ(夫)の具合が輪をかけて悪い。闘病と言っても決して病気と闘っているわけではないけれど、闘病以外に今の状況を表す語彙を持ち合わせていない。

 

 

今後の経済状態の事も考え3月末までにこの家を出なければならない事になっている。

 

 

将来は海外に住みたいパパの意向もあり家を所有する事はせず、常にそれ相応の戸建てを借りて住んでいたが、私一人ではその金額は賄いきれない。

 

 

パパの具合が悪くなってから経営している会社も人に任せ、収集のつかない事になり私も会社の事でフルに動き回る日々が始まっていた。

 

 

 

 

 

 

2008年3月2日(日)

会社の用事で虎ノ門の弁護士のところへ行く途中に小4の長男から電話が入る。

 

 

「パパが噴水みたいに吐いたー!!!」

 

 

即刻電車を飛び降りホームから救急車を手配した。悪性リンパ腫ステージⅣ、そして脳梗塞の後遺症のあるパパと小2の長女と年長さんの末っ子の面倒を小4の長男にまかせて弁護士の元へ行く途中のことだった。

 

 

お前が息子で良かった(涙)

妹、弟を頼む。

頼りになるぜ。

 

 

十二指腸に出来ていた腫瘍が大きくなり過ぎて腸閉塞を起こしていたために噴水のように吐いたのだと後の検査で判明した。対症療法で小腸と胃を直接繋ぐバイパス手術をする事になった。

 

 

手術日までは何も食べられず、鼻からチューブを入れ胆汁を吸出すしながらの点滴生活だ。

 

 

 

 

 

2008年3月12日(水)

この日はパパの手術日……だけでなく、末っ子の誕生日でもある。年長さんの末っ子が良くわかってないのをいい事に誕生日をすっ飛ばした。

 

 

前日の3月11日はママの誕生日なんだ。「来年は盛大にやろうね」と心に固く誓いつつ、なんだか込み上げるものがあり泣けて泣けてしょうがない。

 

 

弁護士の元へ行った日から何をどうしてどうなってたのか、記憶があやふやであまり覚えていないが連日帰宅が午後10時11時になっていたのは覚えている。

 

 

今日は横浜から三河安城の往復、翌日は横浜から山梨を往復し、また次の日は横浜から栃木の大田原まで車を飛ばして夜に帰宅する。

 

 

夫の会社の後始末であったり商談であったりと、もの凄い集中力でこなしていた。

 

 

すべてが車での往復で時間に追われるように走り回っていた。事故に会わなかった事が奇跡なくらいだ。

 

 

そもそも年のうんと離れた私達夫婦は結婚する時に当たり前のように私の親から反対された。だからこれ以上両親には余計な心配はかけたくなかったし、余計な事も言われたくなかった。

 

 

出来る限り自分でやらないと気が済まないし、そういう性分だ……なんて恰好つけて言っているが、ただ素直に甘えられないだけのこと。

 

 

4人妹弟の一番上のしっかり者のお姉ちゃん扱いされてきた私は、ただただ甘え下手の意地っ張り。だけどどんなに意地を張ったって、一人なんて無力なものだ。

 

 

 

 

 

この時は末っ子の保育園のお迎えから夕飯の事まで近所のママ友だちの連携プレーで乗り越えられた。

 

 

感謝!!男泣き。

いや、本当に男性モード全開で仕事してたからそんな気持ちだったのだ。

 

 

パパと一緒になるまではそこそこバリバリと働いてキャリアを積み重ねていた私だけれど、昔気質のパパと一緒になってからは専業主婦で子育てをしていた。

 

 

私はアクティブに見られがちだが家でずっと過ごせと言われたらそれもへっちゃらだ。専業主婦の間に仕事を復帰したいと思ったことは一度もない。いつでもその環境に溶け込んでいく。

 

 

10年以上もの間そのような生活で専業主婦をしていた私がいきなりMAXの仕事量をこなしてる。

 

 

小4を筆頭に2歳違いの子どもたちとパパを荷台に乗せて走るダンプカーの如く。

 

 

仕事と子育てと看病の合間に気合で引越し先を決めた。

 

 

ここは横浜中心地。本当は隣の区へ引っ越すだけでも家賃が安くなるのは解っている。でも子ども達を転校させたくなかった。

 

 

この頃は連日遅くまで9歳・7歳・5歳の子どもたちだけでの留守番も多かったけれどそれがなんだ。とにかく優先事項は子どもの心の安定と腹を満たすこと。それが私の最重要項目だった。

 

 

そして黒柴犬のタロウ。

お前も家族だ。

一緒に住めるとこ探すからね。

 

 

 

 

 

2008年3月15日(土)

新しい家の契約

 

 

 

 

2008年3月21日(金)

引っ越し予定日

 

 

えっ!!1週間しかないっ!!それも小学校の終業式の日だから子供たちはすぐに帰ってくる…

 

 

まあジタバタしてもしょうがない。そんなシーズンだから急だけれどこの日に引っ越し業者を押さえられたのだものやるしかない。

 

 

 

 

 

さて、この引っ越しに関わってくれた近所のママ友達が何人もいるのだが、みんな必ずうちの玄関で立ち尽くす。

 

 

アゴを床まで落としてア然ボウ然。

 

 

一人が言う。

「この、、3,000ピースのパズルを、、あの300ピースの土台(引っ越し先の家)に嵌め込むのね(しばし絶句)……これが出来たらみんなで収納の達人としてデビュー出来ると思うわっ」

 

 

アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

 

 

みんなでひとしきり笑った。

さすが、無理だよなんて言わない。

お手伝いに来てくれたママ達のうちの三人は小中学生の子どもが3人ずついるシングルマザーだ。

 

 

現実逃避する旦那と離婚をし、慰謝料なし養育費なしの中でガンガンに仕事をして先日マンションと車を購入したママもいれば、旦那さまが事業を失敗した時に自分が大黒柱になって夫と子どもを食べさせていった経験を持つママもいる。

 

 

みんな似たり寄ったりのダンプカー。

色々背負って走ってる。

 

 

それを笑い飛ばしているけれど、その奥の繊細な気持ちを知っている。強いも弱いも表裏一体だ。

 

 

もちろんここは横浜山手。いわゆるいいところのお嬢さま育ちで社会的ステータスの高い夫を持つママ友達たちも手伝ってくれた。みなが渾然一体となり、7LDKの我が家の荷物を前に腕まくりする逞しさが頼もしい。

 

 

ああ、母は強し。

 

 

 

 

 

この引越し勝負に勝つにはまず、物を捨てなければいけない。出来ることならば売りたいと思った。リサイクル業者を呼べばいっぺんに済むと思っていたがしかし、大き過ぎる家具はそう簡単には引き取ってもらえない。

 

 

大は小を兼ねなかったし持て余すばっかり。イタリア製も可哀相なもんだ。7LDK分の荷物を前にため息が出る。

 

 

売れなかったものは粗大ゴミと引越し屋さんに引き取ってもらう事に しよう。そうしよう。

 

 

引越し屋さんとの相談という名の交渉という戦いがスタートだ。

 

 

3月は運気上がってるし、やる事多過ぎでアドレナリンやらなんやらが噴出してる感じで、、、、全く負ける気がしねぇ。

 

 

繁忙期でありながらありえない金額で引き取りを承諾してもらった。

 

 

その前に引越し金額もありえないんだけどもうね、予算もあるし、ここをこうしないと前に進めないって時はやらなきゃしょうがない。

 

 

そこから引越し当日まで毎日誰かしら家にいた。ブランド物のバックや衣類、貴金属も投げ売り状態で車も全部手放した。

 

 

目に付くものみな投げ売ったり捨てたりしながらも内側から漲る何かがあるのが不思議な感じだった。

 

 

「子どもは順応性があるから結構平気だけど、大人はこれだけのモノを手放したら鬱になるよ。よく平気だね~。私なら無理」なんて言われたりもしたっけ。

 

 

家の周りに小洒落た木の柵を付けてたの。内装屋さんがやってくれたから、まあ頑丈に付いてるんだこれが。

 

 

それを一つ一つ外してのこぎりで切って普通ゴミに出せる大きさ(50センチ以内)にする。そして人力で運べる荷物は人手と車を駆使して運ぶ。

 

 

「男手欲しいーー!!!」て言いながら、ママ友達みんなでワイワイやっていた。合宿所みたいでなんだか面白かった。

 

 

大変だけど、毎日目の前で展開される出来事が非日常過ぎてお腹がよじれるほどいつも笑ってた。

 

 

合間にパパの病院へ行くのが毎日の日課。胃と腸のバイパス手術の術後の経過も順調でお風呂に入れる許可も出た。

 

 

完全看護だけれどパパは私にお風呂に入れて欲しいって目で訴えている。もちろん私もそうしたいと思ってる。

 

 

お風呂の時間は30分

 

 

本当はね、介助する人はでっかいエプロンみたいのがあってそれを洋服の上から付けて、魚屋さんみたいな長靴を履いて頭とか体を洗ってあげるんだ。

 

 

でもね、お風呂場鍵かかるし密室だし、毎回真っ裸で一緒に入ってたよ。

 

 

まっぱだよ-!!!

 

 

そんな人いないって周りのみんなに言われた。

 

 

 

 

 

一緒に湯船につかってその日の事を喋る。時間にしたら10分くらい。

 

 

パパが退院するまで毎日そこで癒されてパワー貰ってた。

 

 

一昨年(※2007年)の7月に具合が悪くなり、9月に築地の国立がんセンターで言われたのは「悪性リンパ腫ステージⅣ」がん末期だという事。

 

 

抗がん剤治療は体のダメージも大きいので受けない事に決めたものの、余命は10ヶ月もないと言われた(※後に詳細の検査の結果、余命1ヶ月半と言われる)

 

 

まあそれ以外にも、年齢的に高血圧だし糖尿病だし不整脈だし心房細動だし血もドロドロしてるし、すでに満身創痍ではあったのだけど。

 

 

血栓が出来にくいように血をサラサラにするためのワーファリンと言う薬を飲んでいたの。血栓が飛ぶと脳梗塞になりやすいからその予防のために。

 

 

だけど悪性リンパ腫のために出来た消化器の腫瘍が爆発した時に血をサラサラにしておくと大出血になってしまう。なのでワーファリンを飲むのをやめた。

 

 

やめて数ヶ月……

 

 

11月末の長男の誕生日にケーキを食べ終え、みかんを食べ始めたパパが突然むせ始めた。喉にみかんが詰まったようだ。

 

 

むせてむせてむせて

激しい咳を繰り返し、繰り返し、繰り返し、

 

 

顔を上げた時には左が全部落ちていた。

 

 

脳梗塞だ!!!

 

 

ここにまつわる話だけでひとつのお話しが書けてしまうので割愛するが、今ここに書いている3月の入院の頃には体の機能はだいぶ回復したものの、言語障害が残り、認識力が10のうち3程度だった。

 

 

認知症とは違う。認識力が足りていないという状態を初めて知った。

 

 

一度壊れた機能が再生していく様子を自宅で24時間介護しながら見ていた。

 

 

泣けるとか大変だとかそんなのとは次元が違うお話だ。今の私にはうまくその気持ちを書く事が出来ない。

 

 

思うように言葉が出ないってどんなにつらいんだろう。

 

 

病院のちっちゃなお風呂で毎日10分間。二人で湯船につかってその日にあった事をお喋りする時間。

 

 

お喋りがうまく出来ないパパと見つめ合ってニコニコしてるだけの、そんなかけがえのない時間。

 

 

子供みたいにニコニコ笑うの。

あーんな大きな体が、こーんな小さくなっちゃって。

 

 

うん、でもその方が何かあった時におんぶしやすくていいや。

 

 

強がりを言ってみる…

 

 

 

 

 

ねぇ、パパ

夫婦ってなんだろうねぇ。

 

 

なんで私はこんなに頑張れるんだろう。

 

 

実家にも帰らずに小さい子ども3人抱えて。

 

 

パパが元気な頃には「離婚するっ!」て揉めたり実際にそうなりそうになったり、ひどい喧嘩も何度もしたよね。

 

 

「絶対あなたより子どもの方が大事!」なんて言っちゃったりして。

 

 

おまけにあなたは無類の寂しがり屋で世間でいうところの女好きで結構泣かされたし。

 

 

病気のあなたを前に「パパがいない方が楽になるのに 」と思ったことだってある。だって子どもたちはみんな幼くて大変なんだもん。

 

 

だけどそう思った後にあなたの寝顔を見ては後悔がずんずんと押し寄せて泣けて泣けて、いっぱい泣いた。

 

 

その次の瞬間には、あなたにこうしてあげたい、もっともっともっと!って次から次へと湧いて来るんだ。 血も繋がってないのに。

 

 

「妻だからこうしなきゃ!」なんて思ってないよ。あなたの両親はすでに他界しているし、別に私が手抜きをしても誰にも攻められないし病院は完全看護だしね。

 

 

担当の先生からは「僕が今まで見て来た中でベスト3に入るご夫婦です」なんて言われたりもしたね。普通は病院任せなのに、って。

 

 

 

 

 

私の心はあちこちに振れてはその真ん中で踏ん張っていた。

 

 

生に満ち溢れる子どもたちと

死に向かって行くパパ

その真ん中で踏ん張っていた。

 

 

 

 

 

この手術でものが食べられないパパ。パパの痩せてきた背中を流してると燃えて来るんだ。

 

 

不思議とモチベーションが上がる上がる。

だからこのタイミングで入院したんだな。異常なやる気モード突入だ。

 

 

病人いない方が引越しもはかどるもんね。

 

 

どこまでもいい風に考えるのは得意中の得意だな。

 

 

そして、引越し当日が来た。

 

 

 

 

 

引越しはとにかく終わった!!

とてもじゃないが全部は書ききれないがとにかく終わった。

 

 

で、ダンボールの山の中、次の日は末っ子の卒園式だ。

 

 

謝恩会もあるんだったわ。洋服はどのダンボールかしら?もう、明日は飲んだるわっっ!!!

 

 

それよりも今日の夕飯の支度が人生の中の最優先事項。お母ちゃん業に休みなし!!

 

 

この時からパパは私の扶養家族になり、家を借りたり公共料金やその他諸々の何もかもが私の名義になった。

 

 

まあね、パパが身を持って経済的にてっぺんの生活とどん底の生活を見せてくれてるんでしょ?

 

 

そんなことすらもいい風に考えるのは得意なんだってば。

 

 

 

 

 

去年は扶養家族4人の世帯主だったわけだ。

 

 

母子家庭の友達に、「旦那のいない自分が楽で良かった」なんて言われる程だったわけよ。

 

 

そして今、扶養家族が3人になった。減った分、楽になったと思えば悲観する事は何もない。

 

 

色んな経験をさせてもらったから…だから今は、その時より楽と思えるほどだ。

 

 

贅沢三昧もさせてもらったけれど、いい時を思い出して歯噛みする事もない。

 

 

財産放棄もした

生命保険もない

遺族年金もない

動産・不動産も全部処分した。

 

 

だけどとっても穏やかな気持ちだ。

 

 

どんなに大変な時も心が折れなかったのは、3人の子どもたちが私の心にd寄り添ってくれていたからだ。

 

 

その子ども達はパパと私の愛の結晶だなんて、こっ恥ずかしくて言えないわ。

 

 

今ね、愛用のQUOVADISの手帳を開いて色々思い出してたとこよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

4月末にパパが退院した。

 

 

ねぇねぇ、パパ

私の鼻の穴、ぷっくり膨らんでたでしょ?

 

 

引越しの片付けもすっかり終わってパパを迎え入れる事が出来て、「どうだ~!」って気分だったのよ。

 

 

たどたどしい言葉で「頑張ったね」って頭を撫でられて、

 

 

 

 

 

 

 

 

ぜーーーーんぶ、チャラ。

 

 

 

 

 

 

 

 

その手は、もう、ない。

 

 

 

 

 

 

 

 

あれから一年経ちました。

 

 

 

 

 

 

2009年8月

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